よく子泣き爺は
「お父さんがどんなにお前達を愛しているか、いっちょんわかっとらん。」
とほざいていました。
その愛って、コントロール(支配)のことだったみたい。
ある本で、DV(暴力)加害者が、コントロールを放棄する気はまったくなく・・・
暴力をやめる代わりに、自分のコントロール下に収まることを要求していて・・・
という記述があって、
ああそうか、以前父が言っていた
「(兄との)関係修復には5年はかかるかも・・・」 の
関係修復=兄が親のコントロール下に戻ること
(兄の人生への口出しに甘んじる状態になること)
なんだな、と、ふっと納得。(理性で分かっていたことに、感情が追いついて納得)
愛=コントロール なら、そりゃあ愛情に溢れた両親です
愛情には色々な形や表現があるけれど、彼らの解釈は「愛=コントロール」
歪んだ支配・被支配の構造に、勝手に愛と名前を付けたらしいです。
愛=コントロールなら、
独立した娘が旅行に行っていいかどうか
どういうライフプランを立てるのか
姉の手伝いをどの程度やるのか
ペットとの関わり度合いまで 全部意見を言って決めてあげないと!
それが愛だから!
いつ、どの程度自分の愚痴に付き合うのか、
呼ばれたらすぐに駆けつけるのが当然だし、
自分の生活より、親を優先するのが当たり前。
そこまでコントロール(愛して)やっているんだよ
彼らの愛って何だったんだ??と随分悩んだけど、納得。
言葉の定義が私と全く違うんだから、どうしようもない。
私の親子関係での愛の定義は
愛=思いやり、いたわり、相手を尊重
私の実家もそうだったのは分かっていましたが、そのコントロールに愛と名前がついていたとは!
一度支配の味を知ったものは、それを手放そうとはしません。
私の親子関係も、修復不能。
向うは支配を続ける以外のあり方を受け入れる気はまったくないし、
私は今後は干渉や嘲笑は許さない。
TVドラマのような・・・死に際になって、これまですれ違っていた親子の心がつながって・・・なんてことはありえない。
例え親がボケても、ボケた中にも元の性格を見出して(私が関連付けて解釈して)
嫌悪感が募るばかりでしょう。
これまで、母には多少愛情があった気がするのに・・・と思ったのも、ある意味能天気な誤解だったんですね。
コントロール(支配)するための戦略的態度に過ぎなかった、そう思う方が自然です。
そう思わざるを得ないエピソードを書き連ねたら、分厚い本になりそうです。
ACは、得られなかった親の愛をいつまでも求めて、「いや、それでも、ほんの少しでも愛があった(はず)」と思いたがるそうです。
私もそう思いたくて、必死になっていたんだな・・・
でも、もうやめよう。
ほんの少しもなかった、と認めよう。
自分に余力があるときに、簡単なことを手助けするのは誰にでも出来ること。
本当に困った時に、相手のために踏ん張れるかが分かれ目です。
私が本当に困った時に、助けてもらったことは一度もないのだから。
じっくり話を聞くことすらしてもらったことない。
自分のせいなのだから、自分で何とかしろ
問題が起きて、私が困っていることそのものを知らんぷり
(助けが要るような)大事じゃないよね、と勝手に判定しスルー
基本姿勢がこれなのに、どこに愛を見出していたんだか・・・哀しく病んだ自分が悲しい。