数年前に新聞で読んだコラム。
筆者の浪人中の弟さんが受験に失敗し、失踪。
お母さんは、「競馬場で見た」という証言を元に、競馬場に通い続け、
(予想屋さんなどと知り合いになるくらい通ったそうです)
ある新聞販売店にいることを突き止め、迎えに行ったそうです。
弟さんは家に戻り、もう一度勉強して、今はお医者さん。
あぁ、うちではありえないな~
「勝手に出て行きおってからに。知らん。」
と、探しもしないでしょう。
もし戻っても、「どれだけ親が心配(迷惑)したか」をとうとうと説教するだけだろうな~
無事を喜ぶとか、失踪中の様子を聞くとか、ないだろうな。
そう思いました。
先日のTVドラマ。
戦地で死に目に遭っている息子の夢を見た親が、
あの世に連れて行かれないように、一晩中名前を呼んだ話が出てきました。
うちの親だったら、「息子をなくした親の悲しみ」に浸るだけで、
息子を助ける為に、自分が今出来ること(祈るとか、名前を呼ぶとか・・・
例え気休めでも)をしようという発想もないだろうな。
そう思いました。
子どもの時から、
万一空襲で家族で逃げるような命の危機に、私が転んで逃げ遅れても、
「早くせんね!!」
と言うだけで、戻って私を助け起して抱えて逃げる・・・なんてことは親はしてくれないだろうとうすうす感じていました。認めたくなかったけど。
私が行方不明になったり、死んだりしても、
「出来るだけのことはした。仕方なかった。」
って言うんだろうな・・・と。
自分を生み出した存在が、その程度にしか自分を思っていないのは辛かった。
本当は、私のために「面倒くさいことはいちいちやらないよ」なのだ。
いわゆる「親の愛」のエピソードに触れるたびに、
「私とは無縁のこと」
と思うのは寂しい。
でも、仕方ないです。
今も辛いですが、今は、もう彼らの力はなくても生きていけます。
子どもの時は親の助けがないと生きていけないけど、今は大丈夫。
元気がわいたり、落ち込んだりをらせん状に繰り返しながら、少しずつ親との距離が開いています。
このまま進んでいこう。
幸い、夫も同じなのが救いです。
TVで「親の愛子知らず」な話が出てくると、
二人で、「親の愛? 何それ?ないものは知りようがないよね~」と意気投合(?)。
夫が親の愛に恵まれていて、私の気持ちが全く分からない人だったら、
益々孤独になっていただろうな・・・
同じ気持ちの人が側にいるのは心強いです。