あの人たちと、互いを思いやって、助け合う 健全な親子関係を結べないことは、
受け入れました。
あの人たちが、いい方向に変わらないことも、受け入れました。
あの人たちが、二人とも、自分のことしか考えない自己愛性格で、私のことは、利用しやすい便利な者としか思っていないことも受け入れました。
最後の課題は、
「最初からいなかったかのように扱われること」を受け入れられるか? のようです。
私もあの人たちを拒絶しているので、向うから拒絶されるのは仕方ないし、
気持ちの整理もつくので、歓迎します。
でも、ここで言う拒絶は、「相続人から外される」といった"拒絶"です。
私という娘がいることを、向うが認識していることははっきり示された上で、拒否されるのは歓迎します。
そこには、私 対 親 の相互関係があるから。
別々の存在である「私」と「親」が決裂する。 そこに、「私」は存在しています。
私が今苦しく感じているのは、今後は、存在を無視される予感がすることです。
子供が、無視されるくらいなら、怒られるほうがまし、とばかりにいたずらすることがありますが、無視されたくない、この心境です。
人間は、群れで生きる動物なので、年齢に関係なく、無視されるのが一番辛いのは本能的なものではないかと思います。
誰でも、自分の存在を、肯定的に認識されたいでしょうから。
マザーテレサが、「必要とされないのが一番不幸」と言ったそうですが、それに近いかも。
必要でないなら、いなくても構わないし、
必要でないなら、そこにいても、いないものとして暮らしていける。
嫌われるのなら、いいんです。私も嫌っているのだから。
少なくとも、「嫌いな奴」として、私は存在しています。
いないもの扱いは、さすがにきつい。
去年の秋、親が上京しました。
私は、葉書一枚「夫実家のことで忙しいから」で会うのを断りました。
親は、そのあと、
「本当に忙しいのか・大変なのか」、「私が本当はどう思っているのか」の確認もないし、
「それでも会いたい」と言ってくるとか、
「親がわざわざ来るのに、会うのを拒否するとは何事か」と怒るわけでもなし。
こちらには電話一つもなく、孫と楽しく過ごして帰っていったそうです。
私は、「自分達の思うようにならないなら、あなたはいらない」と言われた気分でした。
(実際そうなのでしょう)
自分で会わないと言っておいて、相手の反応がないことに文句を言うのはお門違いなのですが、これが私の正直な気持ちでした。
「自分たちの思うように利用できないなら、いらない」
というのが彼らの本音です。
壊れた家電は、見向きもされず、捨てられるのと同じく、
利用できない子供は、いらないのです。
たまに、「理由不明で自分たちから遠ざかった、気に食わない恩知らず」として、思い出されることはあるでしょうが、それだけ。
彼らが、自分たちが、何か悪いことした?と振り返ることはないので、
「考えの浅い気の迷いで、親から遠ざかってけしからん奴だ。
まぁ、考え直して、従順になるなら、再びわが子として、仕えさせてやってもいい。
私達は、心の広い親だから。この親の慈悲をありがたく思いなさい。」
ってなものです。多分。
この本音に裏打ちされた、彼らの嘲笑まで聞こえてきます。
自分をこの世に生み出した、ある意味「神」である親に、
存在を黙殺されること
この状態を受け入れて、自分の道を進んでいけるか・・・・
実際には、親との接触は断っているので、絶縁に近い状態です。
自分の心の健康の為に、この方針を変える気は全くありません。
これは、私の気持ちだけの問題です。
いま、一つの大きな曲がり角に来ているのは確かです。
進まなくてはいけません。
進みたいです。