こうやって振り返ると、私は蜃気楼を追っていたんだと気付きました。
楽しい親との交流
優しい言葉をかけてもらい、ホッとできるひと時を過ごす
幾つになっても、親には愛情もらっているなぁ、と思ってみたい
そんな夢を見ていたんです。
電話で話して、会ってみて、夢は叶わず潰える・・・
次こそは!もしかしたら!と次の蜃気楼を追って走り出す。
それの繰り返し。何て虚しい。
これだけ嫌なことを言われて、人格も人権も無視した傲慢な態度を続けられて、まだ彼らの愛情を求めて我慢するんですか?
17年なかったものが、これからあるんでしょうか?
「兄からの絶縁」という「家族の危機」を経験しても、いい方向には全く変わらなかった・・・それどころか、いやらしい甘えや支配を増している彼らに、
何を期待すると言うのでしょう?
これから衰えて、それでなくても手がかかるようになる彼らと、接触を続けるメリットはどこに?
遺産?
いくらかも、もらえるかも分からないのに?
お金と、あなたの心の健康や貴重な時間を取り替えるのですか?
答えは明白です。さよなら、です。
万一、「17年なかったもの」が生まれたら?
その時は交流すればいい。”なかったもの”が生まれたのなら、
彼らから拒否されることはないはずです。
子供としての義務は果たしたのに、遺産を全くもらえなかったら?
世話をせずに済んだら、もらえなくてもいいです。
世話をしたら、その分の対価はもらいたい。
労働を正当に評価してもらいたい。
希望通りにならなかったら、諦めるしかないでしょう。
やっぱりね、と、墓参りも法事参加もしなければいい。
その時は相当ショックでしょうけど。
逆に、やっぱりその程度の人たちだったと諦めが付くかもしれません。
今まで、理性では彼らとは絶縁!と判断できていましたが、感情ではもやもやした物があり、まだ希望を捨てたくない気持ちもありました。
こうしてざっと振り返って、希望を持つこと自体、虚しいこと、私の回復を妨げる執着だと思い知らされました。
何度でも自分に言おう
「17年なかったものが、これから生まれるとでも?」
兄の絶縁でも効果がなかったなら、誰かが死なないと駄目でしょうね。
死を契機に、人生振り返れば、もしかすれば・・・ですが。
それを待ってはいられません。
おそらく待っても無駄でしょう。
少なくとも、父方の祖父が亡くなっても、父は全く変化なし