シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

どんな気持ちも置いておく

水曜日に夫の主治医から再度説明を受けて、残っていた疑問も解消し、夫の病気についてはだいぶ整理がつきました。治療には結びつかないけど、夫のヤコブ病の遺伝子検査も受けることにしました。(こちらも研究段階のもので、検査自体は無料)

転院も決まったし、昨日は介護保険の負担割合証が届きました。夫は65歳以下なので、収入に関わらず1割。良かった。施設に入った場合は、大きく影響します。現実の問題は望む結果かどうかは別にして、減ってきました。

 

だからこそ余計に、落ち着かないもやもやとしたものが心の中に沢山あります。

曖昧な喪失の著者の「認知症の人を愛すること」という本を読み始めました。大事な人が認知症になって、徐々に以前のその人とは違っていくと、目の前にその人はいるのに、その人は失われていく(失われつつある状態がずっと続く)。その曖昧さは死別とは違う複雑な心理的負担・悲嘆を呼び起こす。

まだ途中ですが、「どんな気持ちもそのままでいい」と受け入れられたら、少し楽になるという主旨のくだりがありました。

早く逝ってくれれば、無理にでも新しい人生に踏み出すしかなくなるのにと思うこともあれば、どんな状態であれずっといて欲しいと祈っている時もある。

お金の心配が最重要になる瞬間もあれば、夫が心穏やかに過ごせることを一番大事に思う時もある。

相反する気持ち、矛盾する気持ちー自分の身勝手さが目に付くときもあれば、夫はあの時冷たかったと憤りと共に思い出すときもある。

こういう気持ちが湧くのは私がおかしいからじゃなくて、この状況のせいなのだし、「こう思っているんだな~」と置いておいていいのかな。

 

この本を読み始めて、やっと泣けるようになりました。

 

「その人を何度も喪う」という言葉にも頷くばかりです。

夫がテレワークになって、ゲップばかりするようになった頃(2020年秋ごろ)から、夫は仕事が終わっても部屋に籠ることが増えました。ゲップがあまりに耳障りで、当時の私にはその方が都合が良かったのですが、夫が私とわんこから距離を取っていくようで寂しさも少しありました。あの頃から、徐々に夫が失われていったのかな。

発病してから少し経って、認知機能も落ちてきた去年の6月ごろからは、夫の無気力・無関心も徐々に悪化して、これからへの不安や夫から見捨てられたような喪失感を感じるようになりました。

 

段々夫が変わっていって、私の気持ちも、徐々に、夫は元には戻らないのかな・・・が、元には戻らないんだな・・・になっていきました。

そう思いながら諦めようとしていたつもりだったけど、それでも、「実は治療可能な病気だったと分かり、回復して家に戻る奇跡が起きたらいいな」と願っていた自分の本心に気付いたのは、医師に、「残念ながら治療可能な病気でないことははっきりしました」と言われた2週間前。

 

たった2週間前のこと。

自分の都合で会わないのではなく、コロナで会えない状況下で、すぐに気持ちの整理がつくわけがない。

今は自分をいたわろう。

夫のために必要な手続きや準備はやっています。わんこも留守番が増えてストレスが溜まっているので、できるだけたくさん散歩に行ったり、遊んだりしています。

何とか仕事も続けています。

自分が体調を崩さないように気をつけてもいます。

心が挫けないように、人と会ったり話したりするようにもしています。

 

必要なことは十分やっているよ、と自分に言おう。

どんな想いが浮かんできてもいいんだよ、と自分を赦そう。