副題:失われた身体観を取り戻す
禅僧の藤田さんと、武術家の光岡さんの対談
これまでいろいろな本を読んで考えてきましたが、それだけではしっくりこないこと、上手くいかないこと、微妙にずれて腑に落ちないことが多くなり、段々、実体験、言葉にはしにくい、淡い微妙な感覚や第六感のようなものも大事で、バランスが取れていないと自覚するようになりました。
体も含めた全体で体験していく手がかりになるかと読みました。
とても興味深い対談で、心に響く内容だったのですが、これを言葉でまとめるのは難しいです。
身体感覚は時代とともに変化していることについては、「しゃがむ」話は分かりやすかったです。
以前、TVで、日ごろスポーツをやっている若い人がしゃがもうとすると尻もちをついてしまうのを見て、「和式便所で育った私とは体のどこかが違うんだな」と驚いたことがあります。
この本でもしゃがめない人が増えている話が出ていて、椅子に座る生活のため、感覚がお尻までで、それから下が分からなくなっている。”腰”がどこか分からなかったりもするそうです。
腰についても武術家の言う腰と、私の思う腰は違うようです。
他のことでも、似たことがたくさんあって、座禅でも、武術でも、それが興ってきたころには、当たり前に共有されていた身体感覚がベースになっているけれど、今の”当たり前”は当時とは全く違うので、座禅が痛いとか、我慢大会のようになってしまったりするのだそうです。
確かに、最初座禅を始めたときは、右足を左太ももの上に乗せる座り方は痛くてつらかったです。今は慣れて、体の収まりがいいので、20分くらいはすぐに経ってしまいます。以前椅子に座って瞑想をしていたころは、5分くらいで落ち着かなくなっていたので、座禅の座り方にも意味があるんだな~と最近感じていました。
理想像に自分を合わせて変化させようとするのではなく、ただここに在るを観る、ただ実行する、その中で立ち現れてくるもの、”ない”ことが観えてくるところに気づく。
そういうスタンスでいると、自分が今求めている感覚が”あぁ、このことだったのか”と降りてくるのかな、と感じました。
(藤田さんの言葉)
自分自身が体ではなくて、身体という自分とは別のものがある。それを自分が操作すると考える。
座禅は一寸先は闇という現実においてちゃんと生き抜いていける心身を練っている。教義が本当かどうか自分自身を実験材料にして試していく。「どのように坐る」ではなく「ただ坐る」
ブッダには「今起きている自分の経験から一歩も離れないようにしよう」というスタンスがありました。
坐禅の別名は「帰家穏坐」
禅では「冷暖自知」と言って、実物に触れることが強調されます。
自力で解決することを諦めるのが大事。
「放てば手に満てり」(道元)
思考の中で生死を捉えると、必ず捉えたものの影が恐怖心や怯えを生むのです。・・・そうではないアプローチとして体をあげて取り組む行があるのです。つまり思考ではなく体を使う。それによって思考をやめるのではなく、越えていく。
(光岡さんの言葉)
「体(からだ)」は無く、空いている。「身(み)」は満たされ詰まっている。・・・からっぽの体からしか身は発生しない。何らかの動きや働きは体からしか発生しない。(武術の)型とは一回性を生ききる自分を観る稽古
自分がこの世に生まれてきたのは「気が向いたから、気になったから生まれてきた」ということに尽きるのではないかと思っています。
物と物のはざまの何もないところに「気」を向けることが「観る」こと。ぐっと握った手を緩めるときの感覚がうつろになっていく感じから、体の無いところ、あいたところへ気が向くようになります。
体はもともとアシンメトリー(内臓は左右対称ではない)。
客観的事実という仮想現実によって、私たちは己を見失っています。
自力でとことんやった人間でないと諦め方も分からない。
内観では働きかけるような対話をせず、立ち現れてくる身体をただ観ているだけ。
アイヌの話が、仕事探し中の私には刺さりました。
狩りに行って、目的だった鹿が獲れなかったとき、「私は鹿は欲しくなかったのだ」というのだそうです。負け惜しみではなく。
鹿を獲れなかったことが「自分は鹿が欲しくなかった」ことを教えてくれ、獲れたら「今日は鹿が欲しかったんだ」と言う。
誰かが死んだときは「あの人はちゃんとしていたから死ねたんだ」と言う。
なかなか深い話です。