シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

遊雲さん父さん 有国智光著

副題:小児がんを生きたわが子との対話

著者は浄土真宗本願寺派住職。

息子さんが小6の秋に小児がん(ユーイング肉腫)になり、中三の12月に亡くなりました。その間~亡くなった後のご自分の心境などをまとめた本。

今年になって、自分の中で「喪失」や「死生観」がキーワードに再浮上しているので読みました。

著者が住職なので、仏教色がありますが、それも含めてとてもいい本でした。

 

息子のがん、その先にある死の可能性も含めて、自然の季節の移ろいを受け入れるかのように受け止めようとする基本姿勢に、こういう捉え方もあるのだと心動かされました。

そうは言っても、葛藤があったり、治療法などを自分なりに捉えるために、医師などに何度も説明してもらったり、その時にできることをやり、考えたいことを考えていく。本には書かれていない葛藤もたくさんあったでしょうが、あるがままに受け止めようとする姿勢が貫かれていて、なかなかできないことだ、とも感じました。

 

何度か読み返しても、自分が感じたことを上手くまとめられなかったのですが、こうして気になった部分の一部を書き出してみて、

今を受け入れて、流れに任せつつ、ご縁を受け取りつつ、自分にできること・やりたいことをやりながら「今」を楽しんで生きるのがいいのだろうな。

日々の暮らしはもちろん、「死」や「大切な存在との別れ」もまた、コントロールも避けることもできないのだから、自分にはつかみきれないけれど、なんとなくあるような気がしている「おおきないのち」「自分がその小さな波の一つであるところの大海」に自分は包まれているから大丈夫なのだと安心・信頼して、ジタバタすればいい。

                          そんな気持ちになれました。

 [気になった言葉たち]

私は、逆らい難い必然の中を、その時そのときの縁によって、生かされている。それが、私がここに「確固として」あるということの意味なのでした。

避けられないことならば受け入れていくしかないし、同じことなら楽しんでやった方が楽しい。・・・その中で居心地の良さそうなところを探す。必要ならば、作る。許される範囲で、心地よくなるほうにそっと変えていく。急がずにゆっくり。そして、そこに静かに寝転がる。 

惜しや欲しやと思はぬ故に、今は世界が我が物ぢゃ 「大笑小笑」第12の6より 

根っこに心細さがあるから、小さな差異にことごとくびくついているのでしょう。 

ある方が、「死にたくない」というのは「永遠の命と出会いたい」という意味の叫びだ、とおしゃっていた。 

死は「この私」という小さな、しかし絶対的なしこりが解きほぐされ、温かく大きな「いのち」の中へとくつろいでいくことにほかならないではありませんか。 

死を直視するとは、私の生を包んでいる大きな全体に気持ちを開くことだったのだ。閉じて安住するのではなく、開いて、今ここに生きていることのただ事でなさに、心を震わせることなのだ。 

勝手に、自分の求めているもの、自分の欠いているものを、当然の権利であるかのように基準にする。そして、自分を「そこに届いていない」者と位置づける。自分で自分をわざわざ「落ちこぼれ」に仕立て上げるわけだ。 

わからないものに対しては、ただ開いてうちまかせればよい。 

「頑張り続ける」ことこそが「苦」であり、地獄に居つく原因なのです。頑張り続け走り続けることしか知らず、貧乏くじを引いて負け組に回ってしまうことを恐れ、内心おびえながら、小さな達成感にすがってかろうじて自分を支えたつもりになっているのでは、息苦しくありませんか? 

「死ぬことをきちんと考えるって、本当はそんなに大変なことじゃなくて、今を精一杯楽しむこと」 

おびえるから怖い。おびえまいとするからなお怖い。安心しておびえればよい。 

父さんにとってほんとうに大切なことは、父さん自身が、今を喜んで生きることなのだ。遊雲さんを引き合いに出す必要はない。ただ、父さん自身が。