シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

さるの湯  高橋克彦著

注!ネタバレあり

 

友人の紹介で読んだ短編。20分もかからず読み終わったのに、未だに感想がまとまりません。

 

最初に浮かんだのは、他者との出会いや交流を通じて己を知っていくし、次のステージに進むエネルギーやきっかけなどもやってくるんだな、ということ。

他者は人間である必要はないのだろうけど、無色・無風・無音の無菌室に他のすべてから隔離されて一人でいても、”次”はやってこないのでしょう。最初は、これまで受けた刺激や、未消化の事象が自分の中から次々表に表れて、変化したり、発見したりもあるでしょうが、それが終わるとそこで止まってしまう気がしました。

変化し続けるのが「生」だとしたら、変化が止まった状態が長く続くと、それは生と死のあわいがぼやけていく状態なのでしょうか・・・。

 

何を根拠に自分が存在するとか、生きていると言えるのか・・・哲学、SFなどでも聞く疑問ですが、私にはこの答えの持ち合わせがありません。

なので、実は今、自分は存在もせず、残留思念のようなものが、「自分はここにいて、こういうことを感じている」説を否定も肯定も出来ません。日頃はそういうことは敢えて考えず暮らしています。考えても分からないし。

実はすでに死んでいたら? それを知ったとしたら?

あの世があるとして、「もういいかな」とさるの湯に入る(あの世へ行く)気になるのか、「あれだけは見届けないと!」と思うのか・・・今だったら、わんこがどうなったかは確かめに行くかな。

 

そんなことをつらつら考えました。

 

 

思い出したのは、ここ数年で接した二つの死。

おひとりは、近所のわんこ仲間で、70歳前後でがんで亡くなりました。

亡くなる数か月前に、ご本人に、「あちこち転移している状態で、治療法も尽きたので自宅に戻っているの」と聞きました。つまりは、「一番あり得る未来は、数か月中に旅立つ状態だ」ということ。

どんなことを考えているんだろう、感じているんだろう・・・と知りたかったけれど、聞けませんでした。

 

おひとりは、大学時代のサークルの先輩。

スクーターで出勤中、酒酔い運転の大型車にはねられ亡くなりました。ご本人も、まさか自分の人生がここでぷっつり途切れてしまうとは思っておられなかったでしょうから、”どう考えたんだろう”も何もないのですが、それでも魂やあの世があるなら、どう感じているのかな、と考えました。

 

自分で予想が出来る死と、予想外の死  ・・・  自分がその立場になった時、どうなんだろう?と考えてみても、答えはありません。

 

 

例えどんなに周到に準備して、自分なりに心構えをしたつもりでいても、いざその時が来ると、

「殆どのことは中途半端なままだな~、まぁ、でも、そういうものなのかな~」なんて思いながら旅立っていくんだろうか。

 

                まっ、いいか

 

         そう思いながら逝けたら、いい人生なのかも。