副題:援助者にとっての不全感と困惑について
副題の通り、精神疾患のある人や認知症患者への支援をしている人たち向けの本。
著者の精神科医:春日さんは以前から好きで著書をたまに読んでいます。この本はずーっと「読みたい本リスト」にあり、今回、他地区の図書館から取り寄せてもらい読みました。
古い本(2001年)なので、統合失調症が分裂病、認知症高齢者が痴呆老人と表記されていて、時代を感じました。
著者はアダルトチルドレン(という概念)が嫌いなようで、ACには辛辣・・・それ以外は、素直に読めました。ナゼACに対してそう思うようになったのかを聞いてみたいです。ACだということで自分のすべてが許され、受け入れられるべきだという考えの人に多く出会ったのかな?
精神疾患援助では、夫実家でのあれこれを思い出しました。
動きがあった時にすぐ対処できるように準備(福祉関係のネットワークを作っておく、こういう時はどうすると考えておく、当面のゴールはこういう状態というイメージを関係者で共有、など)はしておき、時を待つ。・・・待ちぼうけで何も起こらないケースもあるけれど、無理にごり押ししてもこじれるた上に成果がない可能性大。 とか。
夫実家は、統合失調症で義母の死後通院しなくなってしまった義姉の治療継続や成年後見人申請、認知症の義父の施設入所に、義兄(精神疾患アリ)が”まだ自分が世話できる”となかなか同意しなかった件などは、このパターンで結果上手く収まりました。
・・・根気強く見守ってくれた成年後見人さんのおかげです。
認知症高齢者への対応では、わんこのしつけと繋がるものが。
安心できる環境を作る・・・家族の気持ちのゆとりが大事。気持ちや存在が受け入れられていると感じられることの重要性など。
実際の現場の大変さは分からないけれど、自分の経験と繋がる部分もあって、状況を想像しやすかったこともあり、興味深く読めました。
著者は、自分が中心になって、地域の困難事例に取り組んでいた時期もあったそうで、理想論だとか、管轄外という立場に逃げずに、責任がかかってくるのを覚悟で現実に対処する腹の括り方が出来るのは凄いな、と思いました。
気になった部分を書き残しておこう。私にはどれも自分の実生活に役立つ言葉です。
外来患者で、たとえばけじめのつかない生活のまま症状もいまひとつ改善せず、愚痴をこぼしにくるのだかカウンセリングを受けにくるのだかわからないような人には、「とにかく部屋を片づけなさい。そして朝は遅くとも7時には起きるように心がけなさい。そうしなければ、今の状態からはけっして抜け出せませんよ。」と、自分の経験を踏まえて伝えることにしている。・・・部屋や家というものは物理的な存在を超えてもやは精神と不可分なものであることを、ここでわたしは強調しておきたいのである。
「ただなんとなく」他人と接して生きているということだけで、人間の暮らしはそれほど誤った方向に行かずにすむことが多い。日常レベルにおいては、論理的思考や知性といった小難しいものが、健全な暮らしの「よすが」になるとは限らないのである。
謙虚さを欠き、他人を非難し攻撃することによって自分自身の不備を誤魔化そうとするような寂しい人間いだけは、なりたくないものである。
他人を平然と道具としてのみ使い、いわば情性欠如的なトーンを秘めた人物というのは、ある程度の繊細さをもった人間に対しては根源的な不快感ないしは不安感をもたらす。
わたしの経験からすると、人間は現状維持に固執する。たとえ現在の状況が悲惨で不都合で困った状態にあったとしても、それをあえて打ち崩して別なステージの生活を始めることにはかなりのエネルギーを必要とする。それは予想以上に大きな負荷なのである。
現実にはうまい対処法決定版なんてありはしない・・・「そんなものは存在しないということを知っている」ことも重要だ。
人間はルーズでいい加減な部分が多い方が当たり前
腹を括るには、得るものと同時に失うものもあるということを肝に銘ずる必要もあるだろう。
とりあえず一通りの選択肢をチェックすることによって払拭される不安や迷い、現在はベンディング状態であっても相応の手をあらかじめ打っておくことでもたらされる自信、できないことはできないなりにそのことを明確化し関係者が確認しあっておくことで生ずる現実感、予想外の選択肢が浮かび出てくることもあるのだから今は手づまりに思えても放棄する必要はないといった発想に基づく楽天性ーこうしたものがもたらす、目には見えないし因果関係をうまく説明することも困難だが時には意外な展開につながる影響力を、私は重視せずにはいられない。