副題:拒食と過食の文化人類学
先日読んだ「急に具合が悪くなる」で気になって読んでみました。
摂食障害についてはザックリは知っていましたが、当事者の声を聴いたことはほとんどなかったのと、それを文化人類学の視点で語っているのが興味深かったです。
私自身に買い物病があり、嗜癖傾向があるので、気づけば自分の回復のための資料として読んでいました。
一番印象に残ったのは、過食をしているときはフローに入っているとの分析。心を落ち着けるために必要でやっているんだろうな~とぼんやり思っていましたが、なるほど、フローか、と腑に落ちました(もちろん人によって違うと思いますが)。
自分の買い物病も、欲しいものを探しているとき、ちょっとでもお得に買おうと検索しているときは、他のことが頭に入り込んでこない一種のフロー状態だから、それが心地良くてはまったんだな・・・と自分に引き寄せて考えてみても、納得。
丁寧に接客されるのが嬉しくて、買っていた時期もありましたが。
もう一つ印象に残ったのは、その”困った状態”のベースになっている問題(心理的葛藤など)が解消すれば、”困った状態”(ここでは摂食障害)が消える、とも言えないということ。一種の儀式になっていることで落ち着いていた人が、夫と同居を始めてこの”儀式”が出来なくなり、急激に病的に痩せた例が出てきました。私にはその人がやっと作り上げた均衡が生活の変化で崩れたせいのように見えました。
常々自分が感じてきた「玉ねぎの皮問題」が「還元主義の問題点」として語られていて、頭の中が整理できました。
玉ねぎの皮問題(私命名):色々と工夫し、一つ状態が改善したな、と思える状態になっても…例えば、自分より上の立場の人に自己主張するとか…少しは楽になるけど、根本問題はあまり変化しない。
人間という種に馴染めない、人にどうしても違和感を感じてしまう居心地の悪さ、生き辛さは続いていて、別の原因のせいじゃないか?⇒新たな課題を解消するための努力が延々と続くこと
1枚皮をむいても、また皮がある。
還元主義:基本的に症状の誘因となるものを探し、それを修正することで結果として拒食や過食の消去や寛解を目指そうとする因果論的なものの見方。その結果、個人は心と体という二つのパーツにわけられ、そのどこに問題が起きているかの探求が始まり、問題が特定されたらそれを修正するための努力、すなわち治療がなされる。
症状がある限り、こじつけだろうが原因(ストレス源)を見つける、これが原因だとすることは可能。
摂食障害で還元主義が問題になるのが、食べるという体験の内実が周縁化されてしまうこと。
自分の問題に置き換えると、次々と表面化して目を惹き、生き辛さを生み出している(ように自分には見えてくる)個別のことに意識が向きすぎて、自分全体を一つととらえる視点が欠けていく現状。そのせいで、頭でっかちで身体感覚が置き去りになっている自覚があります。・・・これに近いかな?
家族モデル:家族内の問題・葛藤が摂食障害を引き起こすという考え方。「母親の愛情不足説」など。
家族関係を原因にすることに賛否両論あるようですが、私個人は、摂食障害に限らず、本人が、自分が当てはまると思えばそうなのだと思ってきました。裁判をするわけじゃないから、万人が納得できる理論は必要ない。
〇〇に原因があって、今の自分はこういう風なんだ(自分だけの責任じゃない)というストーリーに救われるなら、それでいい。
著者も違う言葉で同じことを語っています。
物語の議論において科学的妥当性を持ち出すことは滑稽である。(童話「青い鳥」の科学的妥当性をだれが議論するであろうか。)よい物語とは、人の琴線に働きかけ、そこから自分の人生を問い直せるようなストーリーのことを指し、そこに科学的な正しさは必要ない。
自分の生き辛さ問題もこれでいいんだな、と思えました。
健康維持のための生活習慣などで、専門家の意見の通りに自分の日常を変えようとするのも、ほどほどに、とも感じました。
ふつうに食べられない人たちは、自然科学あるいは専門的言説の時空間に食の純拠点を移動させその結果それまでの食を失い、さらには人と人のとかかわりまでも失っていった。
ここ数年、自分の生き辛さ問題を軽くするには、個別対応ではなく、心身全てを一つと捉えることが必要なんじゃないか?と感じるようになりました。
嫌なことにはNoと言う、という表に現れる行動は同じでも、これまでは頭で考えることがメインでした。
それにプラスして、胸のあたりがもやもやするとか、なんとなくやばい感じがするとか、そういう感覚も含めての判断をしたくなってきました。本当に”こうなったらいいな”という状態は、自然に身体感覚と統合された状態を維持できるようになった先にある予感がしています。
文化人類学、なかなか面白いじゃないか、と思った1冊でした。