シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

写真が示すもの 

写真の断捨離でアルバムを見返しています。

 

中高の時も、大学時代の帰省の時も、笑顔がなくて暗い固まった顔が多くて自分でも驚いています。友人といる時の写真は笑顔も多いのですが、家族が撮った写真は殆どが暗く固まった表情です。

 

極力自分の主観で色付けしないようにして見ても、私を知らない人でこれらの写真を見せられて、「幸せそう」「楽しそう」という人はいないでしょう。(いたら、その人の感覚はおかしい、と断言できるくらいの暗さ)

 

自分では割と楽しかったと思っていた高校時代。同窓会の時に誰かが持ってきていて見た卒業アルバムの写真があまりに暗い表情で、自分でも「なんでこんな硬くて暗い表情で・・・」と思ったのを思い出しました。

緊張して固まっているのとはまた違う表情なんですよね。

怒っているのでもない。多くを諦めた家畜の目?

 

いくら毒親だったからって、毎日何かされていたわけではないし、楽しい思い出もあるし、「子供時代は苦しいばかりでした」というのは、”偏った見方だろうな、今は気持ちの整理中だからそういう見方になるのは仕方ないにしても”と思っていましたが、ちょっと違うのかも。

ベースにあるのが愛情飢餓感だったり、人間という種への不信だったり、自己否定だったりするとき、表面的には楽しくても、心の奥底から安心して楽しんでいるわけではないから、本来の楽しさの数割しか楽しめていなかったんだろうな・・・。

いつ空爆されるか分からない映画館で、どんなに好きな俳優さんの素敵な映画を見ても、心からリラックスして映画に集中して楽しむことが出来ないのと同じだったのかな。

 

写真を見返しながら、あいさつ程度の交流しかなかったご近所の家に、室内犬に会うという名目で時々行っていた小学生時代があったことの意味(精神のバランスをとるために、ギリギリのところでそういう選択をするしかなかったこと)の大きさをまた考える今日この頃です。

大人になって考えると、自分だったらそういう子供が訪ねてきて、家に入れるかな?入れないよな?と思います。外で会ったら、話したりはするでしょうけど。

当時の私はわんこが大好きでかわいがっていたわけではなく、暴力をふるったり、威嚇するようなことはしなかったけれど、玄関におやつを投げてわんこが喜んで取りに行っている間に、リビングのドアを閉めて、わんこが「開けて~」というのを笑って見ていたりはして、かなり意地悪していたことは覚えています。

今の私だったら、大事なわんこに意地悪するから嫌だと拒否すると思います。

その家の人がどう思っていたのかは確かめようもありませんが、そんな子でも来たら入れてくれたのは、何か切羽詰まった感じがあったのかもな・・・と思ったり。

その家に行かなくなったのは、もう来ないでと言われたのか、チャイムを押しても出てきてもらえないことが続いたのか、自分から自然に行かなくなったのか覚えていません。

 

写真の整理のために見返すのをためらっていた理由の多くはこれでしょう。

思っている以上に辛い子供時代だった証拠を改めて見たくはなかった。

嫌な事も色々あってACになってしまい、今も生きづらいけど、でも、楽しいこともあったと思いたい気持ちの逆の証拠を次々見せつけられたくなかったのかな。

正直、小学生時代は辛くて面白くなかった、と自分でも思っています。あの頃の写真を見るのは怖いような・・・。

まぁ、腹を括って見返して、捨ててしまおう。